家族を支援し少子化に対応する社会システム構築のための行動科学的根拠に基づく政策提言
親も困っている
黒田さんは脳科学者です。2004年以来、マウスの行動実験などを通して、子育てに関わる脳の部位と、そこで働くニューロンや遺伝子を明らかにしてきました。また、子への攻撃行動(人間の場合の虐待にあたる)に関係する脳の部位も明らかにしました。
そうした基礎科学研究に基づき、2015-18年には、JST RISTEXのプロジェクト(「安全な暮らしをつくる新しい公/私空間の構築」領域 養育者支援によって子どもの虐待を低減するシステムの構築)を行いました。「虐待というと、子どもの保護に目が向きがちですが、なぜ親が虐待をしてしまうのか、親自身が困っていることを明らかにした上で、親を支え行動を変えてもらわないことには子どもは家に帰れません。しかし、虐待をした本人への直接的な調査は、厚生労働省の子ども虐待死亡事例検証などでも行われていませんでした。虐待をしてしまう、またはそのおそれのある親のための支援プログラム(以下、支援プログラム)は、海外では行政が手厚く行っていますが、日本ではまだNPOなどによって細々と行われている段階です。そこで、このプロジェクトでは、こうした支援プログラムの社会実装試験も行いました」。
今回のプロジェクトは、この2つの成果を土台として計画されたもので、「子どもを産み育てやすく、持続可能な社会経済システムをめざす」ことを目標としています。
一人ひとりに適した支援を
プロジェクトの大きな柱は、先行プロジェクトで行ったアンケート調査の規模拡大と、支援プログラムを受けやすくするためのシステムづくりです。
先行プロジェクトのアンケートでは、重度の子ども虐待により有罪判決を受けた養育者(以下、加害養育者)に事件の背景や本人の生育歴、メンタルヘルスなどを尋ねました。動物行動科学研究から、哺乳類の親が子育て放棄や子への攻撃をする要因は、①生育歴、②脳機能の問題、③子育て環境の困難の3つに大別できるという知見を得ていたため、これが人間にも当てはまるかを調べることが目的でした。約30名の加害養育者の協力が得られ、その過半数が生育歴、本人のメンタルヘルス、子育て当時の環境の3つのうち、2つ以上の困難を抱えていることがわかりました。また、その問題を具体的に見ると、「薬物依存」、「子どもの発達の問題」、「ドメスティックバイオレンスの存在」、「相談相手がいない」など様々で、虐待の背景は一人ひとり異なることも浮き彫りとなりました。つまり、養育者の支援は、それぞれの背景に合わせてきめ細かく行う必要があることがわかったのです。そこで、本プロジェクトでは、100名を目標としてアンケートの規模を拡大し、子育て困難や子ども虐待の背景要因をさらに詳しく解析することにしています。
一方、支援プログラムには、子どもの年齢、養育者の性別や生育歴、トラウマ体験との関連などに応じて様々なものがあります。「日本でも精神科の医師や看護師、精神保健福祉士、臨床心理士などがプログラムを開発し、NPOを立ち上げて提供していますが、プログラム提供への公的支援の不足の他、プログラムを実際に行う担い手も十分とはいえません。そこで、先行プロジェクトでは、私たちが当座の事務局となり、受講を希望する養育者(モニター)を、その人に適したプログラムを行うNPO等に紹介、受講費用を援助するという形で試験的な社会実装を行いました」
今回のプロジェクトでは、これをさらに進め、子育てが困難な家族に支援プログラムを提供するための公私連携システムを試験的に構築する予定です。「支援プログラムを行うNPOが自治体から業務委託を受けようとすると、費用や個人情報の取り扱いなどについて複雑な契約が必要になります。また、支援プログラムの受講期間は半年以上のものも多いのですが、業務委託が単年度契約であることが多く、プログラムを開始できる時期が限定されます。そこで、諸外国の例も参考に、NPOがネットワークを作り、その事務局であるコントロールセンターが一括して、行政からの業務委託費用や、養育者からの支援の希望を受け入れるというシステムを考えています。これにより、NPOは安定してプログラムを提供でき、希望者は必要な時期にプログラムに参加しやすくなることを期待しています」
子育てにイノベーションを起こす
黒田さんは、上記の研究を踏まえ、少子化対策の政策提言を行うことを目指しています。
そもそも日本で少子化が進んでいるのはなぜでしょうか? 「動物は子育てを放棄しても刑罰はありませんし、離乳すれば、多くの場合、もう子どもの面倒はみません。しかし、人間の場合、子育ては生涯続きます。一人親や障害者への社会保障が十分とは言えない日本では、特に親の責任は重く、子どもを持つことは大きな生活リスクとなっています。少子化が進むのも当然です」
国は、1994年のエンゼルプランに始まり、2015年の「少子化社会対策大綱」など、これまでにも様々な施策を行っていますが、十分な効果が上がっているとは言えない状況です。その理由は、そうした施策の立案過程にあるのではないかと黒田さんは指摘します。「少子化対策の他に、女性の就労を促進する労働政策や、家庭での介護を推進する介護政策などの施策が別々に立案されており、同時に実行した場合に、個人や世帯にどのような負担がかかるかが、総合的に考慮されていないことに大きな問題があります。仮にこれらの政策目標がすべて実現したとしたら、子育て中の親の睡眠時間はどうなるのでしょう。また例えば、お母さんが外で働くために祖父母が育児を手伝えばよいのではないかと、3世代同居を推進する目的で家を建て替えた場合に補助金が出るという制度があります。しかし、このような生活形態では、祖父母に何かあったらすぐに介護と育児が同時にのしかかることになり、場合によっては生活が破たんしてしまいます。そのため、実際には3世代同居世帯はむしろ減少しています。政策立案に無理があるために、結局は効果が上がっていないのです」
このように家族に過剰な負担をもたらす施策が次々と打ち出される背景には、家庭に福祉的ケアの役割を大きく依存してきた日本の社会制度、すなわち家族が子育てをして労働市場に人を提供し、加齢や病気で働けなくなった人を介護することを当然と考える伝統が根強くあるのかもしれません。しかし、家族の負担が過剰になれば、そのしわ寄せは結局、自分では社会制度に声をあげることのできない子どもに来てしまいます。そして、少子化や子ども虐待が改善しないという結果をもたらすのです。この家族をめぐる現状を変えるために、エビデンスに基づいて政策提言を行うことが、本プロジェクトの目標です」
このため、黒田さんたちは、総務省が5年ごとに行っている社会生活基本調査のデータ(1日の生活時間配分や自由時間の活動内容など)を用いて、いくつかの施策を同時に実行した場合に、個人の生活時間がどう変わるかを試算する予定です。
「経済・社会の発展は、自然環境に負荷を与えているのと同様に、家庭にも負荷を与えています。環境負荷を軽減しつつ持続的な発展を可能にするためのグリーン・イノベーションと同様に、家庭への負荷を軽減するイノベーションを起こすことが、少子化だけでなく、家庭の様々な問題を解決することにつながるのです。このイノベーションのために、親子関係研究者としてエビデンスに基づいた発信を続けることが私の役目だと思っています」